パルタニウスの手記 (Notes by Paltanius)

カントーのパルタニウス(Paltanius of Kanto)による手記。

才能論。細分化と適性の視点。

 

「『行動遺伝学』によって、あらゆる能力のだいたい50%は遺伝によって説明できることがわかってきました」

(引用元:「知能が遺伝する」という事実に、私たちはどう向き合うべきか? | ワールド | 最新記事 | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト

 

ストレングスファインダーなり、マイナビのグッドポイント診断なり、昨今の「統計データ等科学的手法に基づく才能分析」の充実ぶりやその内容を見ていると、結局のところ、自分が取り組む物事をどこまで高いレベルでできるかは、根性論以前に素質で決まってくると結論づけてよいと思う。

 

「では私の素質とは何か。どう見つければいいのか。どう伸ばせばいいのか」。次なる質問はこれだろう。

 

遺伝で才能や素質の大きな部分が決まってくるということは、一定の年齢を超えたら基本的には死ぬまでその内訳は変わらない。つまり一生にわたって素質なるものは自分とともにある。24時間365日ずっと、だ。ならば、あとはそれを具体的なかたちで見出して自覚的に磨く、というプロセスを踏めばいいわけだが、これがなかなか見つからない、うまくいかないために皆難儀している。

 

難儀の原因は、「無意識に行う思考や癖は自覚しづらい」「才能・素質というのはこういうものだ、という決めつけや思い込みがある」「環境変化があまりなく、いまいる環境で顕在化するものしか素質として認知できていない」など色々あろう。

 

ここでは、その他の(私の勝手な)説として以下の点を記しておきたい。

 

一般的に、「才能」「素質」という言葉に対応する取り組みの括りが大きすぎる。

→ だから、もっと要素を細分化して、そのレベルでの才能の有無を個別に見ていくべきだ。それによって、「○○というジャンル全般において才能があるかないか」という極端な二元論に陥ったり、それによって落ち込んでしまいチャレンジを諦めるといったことを避けられるはずだ。

 

例をあげる。

 

(例)才能の代表格である「音楽の才能」について。「音楽の才能があるかないか」という話はいつでもいくらでも聞くわけだが、そのたびに思うのは、「音楽の才能」は実際は様々な要素から複合的に構成される能力であるという当たり前の事実が、なぜか才能の議論になると極端に無視されがちな気がするという問題。

 

ガチャガチャ言っているが、要するに「音楽の才能」っていう括りは広すぎませんか、ということだ。

 

たとえば私は趣味でエレキギターを弾くし、簡単に作編曲もやったりするが、いかほど自分は音楽の才能があるのだろう? とたまに思うことがある。

 

こういう自問をした場合、結論からいうと、全体としては「私は音楽の才能は『ある』かつ『ない』」にいつも落ち着いてしまう。世界レベル、プロレベルには到底なれないだろうが、趣味レベルであれば多分平均よりも上手くできるだろう、と、解像度が低いままで分析が終了する。

 

 

だが、音楽の能力とはいったい何があるだろうか、と細分化すると、実は(言ってしまえば当然なのだが)能力別に得意不得意があったりする。音楽をやる上で、私の苦手な項目をあげてみよう。

 

・私は、リズムでグルーヴを生み出すのは苦手だ(練習で一定に保つことはできるようになったが、曲を通してグルーヴ感を出すことはいまだにできない)

・リズムパターンを多彩につくることがあまりできず、単調になる

・リズムでどう遊べばいいか体感覚としてよくわからない

・レイドバック(詳細は省くが、ジャズっぽいリズムのノリ)が色々工夫しても一向に習得できず、やってるうちにシャッフルのノリになってしまう

 

→ 全体的に、リズム系の感覚が鈍いといえる。

  ゆえにシビアなリズム感の要求される黒人音楽などは難しく感じる。

 

重要なのは、これらはどれも訓練で伸ばせるけれども、できる人は最初からそれなりの水準でできている点である。上記のリストを見て、「いや、それは単に練習不足だろう」「集中して時間を投下して練習すれば、できるようになるよ」という項目ばかりに思えるかも知れない。実際それは当たっている。趣味なので、必ずしも毎日弾くわけではない。そうなれば当然毎回腕はなまるし、上達は少しずつになる。私自身、才能論はさておき練習するときには「やってればそのうちできるようになるだろう」という心構えでやっている。そうでなければ、練習するモチベーションにならないからだ。

 

しかしそれを差し置いても、個人の経験上の話にはなってしまうが、個々の要素能力ごとにみると「できている人は最初からできている」と実感するものは多い(そして冒頭の行動遺伝学の話は、この「才能にまつわる個人的な仮説」を裏付けてくれたと考えている)。

 

「最初からできている」例として、私の経験を話してみよう。

 

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私には妹がいるが、彼女は学生時代を通してバレエ、チアリーディング、ダンスなどをやっていた。当然発表会や文化祭など事あるごとに(なかば強制的に)招待されるので、小さい頃から彼女のステージは数多く見てきた。それでわかっているのだが、彼女は最初から「リズム感」があった。適切なタイミングで適切なアクションをとれるのだ。しかもブレがない。ここは一緒に踊っている他の子との比較で(失礼ながら)よくわかる。ぎこちない子は、やっぱりぎこちない。少し複雑なリズムになると、やや遅れたり、やや早かったりと変動が大きい。「頑張ってついていってる」感がこちらにもわかる。一方、妹は「ノレている」のがわかった。リズムにオンタイムでミスなくついていける。彼女はそれがおそらく自然にできている。同じ量練習しているのだから、私の妹だけが他の子に比べてリズムの特訓をしていて、そのぶん上手くできる、というわけではなさそうである。

 

そんな彼女は大学に入って、音楽をやりたいということでベースを始めた。私がもともとギターをやっているのもあり、最初はギターもちょろっと弾こうとしたのだが、「コードが押さえられない」「和音の違いがよくわからない」「指が思うようにうまく動かない」「手をいろんな形にするのがどう考えても無理」「ちまちま基礎練習するのは苦手」と思ったらしく、ギターはやめてベースにしたようだ(もちろん、純粋にベースがやりたかったという気持ちもあるだろう)。

 

しばらく経ってみると、彼女は短期間で随分上達した。もちろん誰でも初心者のうちはゼロからスタートなので、上達速度は早い傾向があるが、彼女は特に、リズムにきちんとノレていた。この点に関しては、私がギターを始めたときよりも上達が早かったと思う。なぜか。もともとできるからだ。しかし、リズム以外では、彼女はいまだに指がうまく動かないし、細かいフレーズを弾くのは「やりたくない」、音程がどれくらい離れているかの感覚はあまり鋭くはない。これはもちろん、リズムの上達速度に対して相対的に「遅い」「伸びていない」だけで、練習すればできるようにはなるだろう。

 

ちなみに、一方で私は彼女とは逆だった。リズムが苦手で、一定にキープしたり、ノリを作り出せるようになるにはかなり時間がかかった。今でもグルーヴを出すのは苦手だし、作曲するときもドラムやパーカッションは何をすればいいかあまり見当がつかない(そのためベースでリズムを作り始めることが多い。音程と音価の長さがセットでないとうまくリズムをイメージできないのだ)。だが、音程の把握や和音の構成音の把握、細かい響きやニュアンスの違いを把握する点においては、比較的初期から「なるほどね」と理解できた。ギター指板から自分でコードを考えて、そこから進行をつくったりすることも、ある程度ではあるが遊んでいるうちに勝手にできた。演奏面でいえば、ハンマリングやプリング、スライドを多用したレガート奏法など、細かい指の動きは最初からそこそこ得意だった。

 

気質的な得意不得意もある。私の妹は、みんなとやるライブがあるからこそ、楽器を練習するモチベーションになっていた。一緒に楽しみたい、一緒にノリたい、一緒に何かをつくりあげて発表したい。その意味で、おそらく彼女にとってはバンドもバレエやチアと同じだ。だから、バンド練習やライブがあると燃えるし、深夜まで熱心にやっている。その反対に、そういうものがないとき、自宅で一人でコツコツ練習するのは苦手そうである。音を出して遊びながら「こうしたらどんな音になるのかな」とひたすら試したりすることはあまりしない。つまり「一人遊び」や「探求」はそこまで好きでもなく、そもそもやり方がよくわからないのだ。

 

一方、私は一人遊びが大好きだ。暇だ、となったらひとまずギターを手に取る(または読書。そうでなかったら、スマホで何かの用語の意味を延々調べている)。適当に指鳴らしをしつつ「そういえば、アレ練習するか」と思いついたら、その場で簡単に練習メニューを脳内に組んで、チマチマ練習する。用事がなければ、そのまま平気で5時間とか6時間やり続ける。手と足がさすがに疲れてきた、となって初めて時計を見て、「え、もうこんな時間」となるのが日常茶飯事である。

 

楽器のいいところはフィードバックが早いところで、上手く弾けるとそのまま音に現れるため報酬も得やすい。だから、もともと一人遊びが好きなのに加えて、より長く続けやすいところがあると思う。逆に、バンドはやったことがあるものの、どちらかというとあまり積極的にはやりたくない、ということが大学時代に判明した。理由は、練習のペースを合わせるのが苦痛に感じてしまうこと、やる曲に個人的に何らかの「エモさ」を感じないとやる気がまったく出ないこと、「複数の人と人間関係を構築して長期間だれずに何かを一緒にやる」というのが非常にしんどいことなどが挙げられる。要するに協調性が全くないし、協調するつもりが始めからあまりない。「社会で生きる上では、ちゃんと協調しなければ」と頭では理解しているのだが、協調しようという心の底から自然と湧いてくる動機が、他の人と比べてかなり弱い。そういうわけで、楽器は家で一人でやるに限る、という結論に至った(ただし、突発的なジャムセッションは好きである。その場限りで終わるからだ。だから、たまに友人とスタジオにいって音を出すのはとても楽しい。つまりは、人と演奏すること自体が嫌いなわけではなく、そこに至るまでの人間関係のプロセスが面倒なのだろう)。

 

また私は性格として、細かい作業が好きである。細かい作業をした結果、きれいなものができると嬉しい。だから小さいときは、細かい迷路を書くことや、プラモデルや書道が好きだった。書道も、おおらかに勢いで書くタイプではなく、小さくて細かい文字を1000字くらいびっしり書くのを好んだ。ミスできない緊張感が案外好きなのだ。

 

実は妹も一緒に書道教室に行っていたが、ここでも性格の違いは出ていたと思う。妹は、女の子ながらのびのびと男らしい筆運び。形はお手本的ではないが、なんとなく味がある。私は、それが上手くできない。お手本をよく見て、厳密に書く。大筆より、小筆やペン字が好き、というタイプだ。大筆で書くにしても、どことなく神経質な仕上がりになってしまう。あえてそうしようとしているというより、勝手にそうなってしまうのだ。見せに行くと「もっとのびのび書いていいのよ」と先生によく言われたものである。ならば、と、のびのび書いてみたつもりのものが「あなたすごく丁寧に書くのね」と言われてしまったりする。それで、まだ「のびのび」が足りないというのか・・・と愕然とする。こんな調子だったと記憶している。

 

私は、体力がないこともあり、山登りやスポーツはすぐ諦める。疲れるし、なんでこの人たちと一緒にやらなあかんの? となって、小さい頃はよく顰蹙を買っていたものだ。しかし、一人だけで行う「細かい作業」では、自分で言うのはなんだが人並みを大きく超えて粘り強い。何度ミスしたとしても「ああーーもう!!!!」とは絶対にならない。「あ・・・まあ、やり直すか」と思える。

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こんな風に、同じ「音楽」「書道」でも、私と妹では全く適性が異なることがわかる。

 

色々言ってきたが、私が言いたいことはごく当たり前かつ単純だ。

 

「◯◯(ジャンル名)の才能があるかないか」というのは解像度が低い考え方なのでやめたほうがよい。たとえば、「音楽の才能はあるだろうか」「書道の才能はあるだろうか」などだ。そうではなく、その営みを細分化し、自分の適性や性格を考慮した上で、フィットするところはあるかもしれない、と考えたほうが建設的である。

 

その上で、ストレングスファインダーなどのツールを活用しつつ、色々と経験を積んで適性を絞っていくのがよいのだろうと思う。

 

 

 

 

 

 

さて、眠気ざましに文章を書こうとしたら、いつのまにか1限に遅刻しそうである。