パルタニウスの手記 (Notes by Paltanius)

カントーのパルタニウス(Paltanius of Kanto)による手記。

良い教師とは何か

良い教師とは何か

 

子供を教える仕事をしている。もう1年になる。

 

 

「できない子」にいかに接するか、いかに伸ばすかというところが、教育者の力量の見せ所とわかった。

 

確信をもって言おう。

 

良い教師とは、相手の個性を見極め、「伸びたい方向へ」伸ばせる者。「できない子」を切り捨てず、本人の価値と能力を見出し、たとえ短期的成果がでなくとも長期間に渡って信頼し、適切な支援をし続けられる者のことである。

 

短い期間教育者の端くれをやってみたが、ほんの少しだけでも、この理想に近づけたのではないか、と信じている。

 

 

残酷な現実を直視する。試されているのは教師自身であると知る。

 

子供の教育をやっていて恐ろしいのは、残酷なまでに、勉強には生まれついての素質が関わっているという点を観察できてしまうところだ。

 

授業は個別指導で、密接に生徒と関わっているのだが、様々な生徒をかけ持ちで教えていると、抽象概念の理解力、言語能力、記憶能力など、勉強において中核を占める重要な資質の有無が確かに存在することに気づいてしまう。

 

もちろん、発達過程には個人差があるから、あとから急速に伸びてくる子もいるには違いない。しかし、こういう事実を目の当たりにすれば、教育における努力信仰を安易に主張することがどれだけ馬鹿馬鹿しいかがわかるだろう。また、管理する側の事情で生まれた画一的な教育というものが、個人の間にどれほどの差を顕在化させているかということも、認識できるであろう。

 

たしかに、努力すれば能力は確実に向上する。だが、「できない子」が半年かけてようやく掴みかける理解を、「できる子」は1時間の授業で獲得する。ここには埋めがたい壁が存在する。

 

「できる子」が褒められ、どんどんステップアップしていく一方、「できない子」は怒られ、停滞を強いられている。特訓という名目で無意味な負荷をかけられ、自信とやる気を喪失していく。

 

教える仕事は、こうした残酷な現実を直視しなくてはいけないものなのだと学んだ。

 

 

 

だがしかし。

 

それでも私は、「できない子」を切り捨てたくない。

 

「うちでは手に負えません」と他のいくつもの塾を追い出されて流れ着いた子がいる。母は嘆いていた。彼は中学三年生にしてアルファベットを書けなかった。1時間かけて教えても、AからZまでの順序すら思い出せない。おまけにへらへらしているから、以前の教師はさぞ怒り、匙を投げただろう。正直に告白すれば、私もそうなりかけたことがある。

 

しかし、それで私が投げたらどうなるか。彼の自信はまたも打ち砕かれてしまう。自分の存在価値を見出せずに生きなければならない人間を、この国に一人増やすことになる。彼の周囲にいる人間が悲しい思いをする。

 

この問題は彼自身の努力の問題である以上に、私の努力の問題であった。私は覚悟を決めて、諦めずに指導を続けてみた。中学生のころ自分が言われたくなかったことは、言わないように気をつけた。他人との比較も完全にやめた。成果は過去の本人との比較をして、そのポジティブな差分だけで頑張りを評価するようにした。

 

 

 

成長と学び

 

1年たった現在、彼は関係代名詞の複雑な文法問題も解けるようになった。わからない単語は自ら辞書を引いて調べるようになった。宿題をきちんとやってくるようになった。今の彼には明らかに自信が宿っている。わからないものも、いつか理解できるはずだ、という信念が芽生えている。

 

客観的に見てしまえば、彼は今でも、他の同級生より圧倒的に進みが遅いし、知識も少ない。数学では、隣の中学三年生の女の子が高校数学を先取りしているなか、比の概念から復習しなくてはならないこともあった。

 

だが、指導する過程で、私は彼に圧倒的な強みがあることを発見した。どれだけ他の先生から怒られようとも、馬鹿にされようとも、彼は必ず毎日塾に来た。わからないから、宿題は忘れたふりをする、それを咎められ怒られる、という日々だったが、それでも来ることだけはやめなかった。抜きん出たタフネスが備わっていたのである。

 

そこで私は、私や彼の親、国、学校の都合で決まるカリキュラムの「あるべき進度」など捨て去って、諦めずに来て机に向かうこと自体を褒めるようにした。また、わからない単元は、わかるまで角度を変えながらずっと解説した。受験などどうでもいい。

 

たとえば一次関数は、2ヶ月に渡って教え続けた。xとは何か、数直線とはどんなものか、なぜ式をグラフにすると直線になるのか、誇張抜きで100回ずつは話しただろう。地球に申し訳なるくらい紙を消費して図解した。時には小学校4年生の教科書に戻った。

 

このプロセスでは、彼は文字情報よりも図のほうが理解しやすいことが判明した。そこで私はテキストすら打ち捨てて、その日必要な図とわずかな文字情報だけを授業で見せるようにした。解説は図を操作しながら対話を重視して行った。これは明らかに効果があって、理解速度は随分向上した。

 

私の教育成果自慢のようになってしまって恐れ入るが、彼は間違いなく、単にテストの点数をあげるための小手先の勉強よりも重要なことを学んだと思う。

 

・知らない単語は辞書で引けるということ(自分で調べる力)

・やり方の工夫で勉強のやりやすさが変わること

・自分にあったやり方が存在すること

・宿題をこなすことによって、自分の知識が増えて、さらに褒められるということ

・考えた結果間違いをしたなら、それは良いミスだということ

・知識が増えると互いに繋がって、別の何かの理解に役立つこと

・テスト勉強=本来の勉強なのではないということ

・世の中には見捨てない人がいるということ

・自信がつくとやる気がでること

・様々な言葉や概念の引き出しがあると伝えたいことを伝えられるということ etc...

 

 

 

まとめ

 

私は、いわゆる受験勉強指導を提供する塾で働いてはいるが、「できない子」を生み出し、進学実績・学歴といった短期的な成果を追求して、本質的理解をじっくり時間をかけて育む本来の「学び」を軽んずる社会にはっきりと「否」を突きつけたい。

 

同時に、そんな社会のあり方を無意識に再生産し、お決まりの教師面をして指導を行う自分に対して、いつも激しい批判意識に駆られる。

 

「そろそろここはクリアしないとね。カリキュラムから遅れちゃっているよ」

 

うっかりすると言いかねない。

 

これは実は相手のためではなく、自分の都合のために言っているのだと気づいてから、強く戒めるようにしている。

 

私は教育関連の仕事につくわけではないけれども、どんな場所であれ、人の育成というのは避けて通れないだろう。その時、なんとしても相手の資質を潰さず、伸ばしてあげたいと思う。

 

 

 

塾の教師アルバイトで得た私自身の学びを、ふと思い立って書き残してみた。いつか人の役に立つことを祈りたい。